「伊庭内湖の農村景観」が「重要文化的景観」に選定されました
[2018年6月16日]
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東近江市の「伊庭内湖の農村景観」は、平成30年6月15日(金)に開催された国の文化審議会文化財分科会の審議・議決により、重要文化的景観に選定するよう答申がなされ、平成30年10月15日(月)付けの官報告示(号外第226号)により、重要文化的景観に選定されました。
文化的景観とは、文化財保護法第2条第5号により「地域における人々の生活又は生業および当該地域の風土により形成された景観地で、わが国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの」とされます。日々の生活に根ざした身近な景観の文化的な価値を正しく評価し、地域で護り、次世代へ継承していくものです。
詳しくは、文化庁ホームページへ 文化的景観(別ウインドウで開く)
琵琶湖の内湖である伊庭内湖に面し、集落の背後に聳える繖山とそこから内湖に流れ込む川と集落内に張り巡らされた水路を巡る水から生み出された文化的景観です。
内湖とともに暮らす集落の特徴がよくわかります。
かつて集落内の水路は、田舟が行き来していました。
選定基準 1-(5)ため池・水路・港などの水の利用に関する景観地
(8)屋根・屋敷林などの居住に関する景観地
2- 複合景観
滋賀県東近江市伊庭町の一部
一級河川大同川・須田川・瓜生川の各一部
面積 260.1ha(うち河川面積77.5ha)
○自然的特性
今回の選定地域は、日本列島のほぼ中央にある滋賀県の琵琶湖東岸中央部にひろがる湖東平野西端の湖岸に位置し、繖山-平地(伊庭集落)-伊庭内湖-琵琶湖という地形から構成される。繖山周辺から鈴鹿山地を源流とする豊富な伏流水が瓜生川・伊庭川となって集落内を巡り、伊庭内湖に流れ込む。また、伊庭川から引き込んだ水路を通して集落内を巡った水も伊庭内湖に至る。
繖山の樹林帯、瓜生川などの河川や集落内を縦横に巡る水路、伊庭内湖といった水域、農地、集落では、各環境に応じて的確に人の手による管理が行われつつ、多様な植生が展開している。また、河川から水路、内湖から琵琶湖へという水系のつながりと流速や水路構造などの水域の多様性は、日本全体でみても注目すべき鳥類・魚類の数の多さだけでなく、多くの希少種や琵琶湖の固有種が生息する環境を生み出している。
○歴史的特性
中世までの文献史料等は乏しいものの、近江守護佐々木氏の被官であった守護代伊庭氏を支えた地域であったと考えられる。また、古地図・絵図に描かれた琵琶湖辺の道路を見ると、琵琶湖東岸中程の安土以北彦根以南において港湾と接する場所は伊庭であり、水陸交通の結節点としての役割を担っていたと考えられる。伊庭における最古の建造物は鎌倉時代に築かれた大濱神社仁王堂であり、今も伊庭祭りの中核的施設として機能している。
近世になると、江戸時代初期には近江国奉行小堀遠江守政一が支配し、三代将軍徳川家光の上洛に際して、伊庭山麓の下街道沿いに御茶屋御殿である伊庭御殿が造営された。その後、旗本三枝氏が明治維新まで伊庭集落内に陣屋を置き、湖東支配の拠点とし、この時期に行政区画を兼ねた水路網を発達させた。本来の生業である農業とともに副業である商業が発達し、内湖を使った湖上交通と陸上交通の結節点として流通・往来の拠点ともなった。
少なくとも中世以降、伊庭の集落位置は変化していないのは、水陸交通の結節点であるという地勢的・機能的特徴が大きな要因である。さらに、散在する孤立山塊以外には明確な起伏が見られない湖東平野の湖岸沿いにおいて、わずかながらも安定した微高地であることが継続的な集住の要因であり、故に景観が保たれた要因でもある。
さて、伊庭の生業は農業であり、延宝7年(1679)の検地では、村内面積の約半分が上田であり、農業生産に恵まれた村であったことがわかる。彦根船奉行所によって作成された「船数帳」によれば、慶長6年(1601)には93艘、延宝5年(1677)の「江州湖水諸浦舟員数帳」には169艘、明治11年(1878)の「滋賀県物産誌」には482艘とあり、明治初期には1軒に1艘の割合になっている。これらは小型農業用の船ではあるが、内湖でエリ漁にも利用されていたと考えられる。こうした状況を背景に、湖上交通や漁業の安全を祈祷し、江戸時代末には金比羅神社が建立されている。また、このごろには麻布産業も盛んに行われ、麻商売で財を成した阿部市郎兵衛家は、大濱神社や金比羅神社に多くの献金を行っている。
明治13年(1880)刊行の「滋賀県物産誌」によると、滋賀県全体の町村数290町1,388村の内、300戸を超えるのは30町村しかなく、人口1,984人、戸数496戸の伊庭村は、滋賀県内でも大津・彦根・近江八幡など滋賀県を代表する都市に次ぐ県内有数の大集落であったことがわかる。その生産基盤は集落の周辺にひろがる広大な農地でありながら、麻布産業をはじめとする商工業が展開し、商工業従事者の比率も城下町である彦根よりも高いことから、町屋的様相も呈している。
○社会的特性
伊庭最大の祭事である伊庭祭りは、繖山の一峰である伊庭山の頂上近くに鎮座す繖峰三神社から始まる。祭りの最大の行事である「坂下し」によって3基の神輿は麓まで引きずり下ろし、望湖神社を経て集落内にある大濱神社境内地の仁王堂前にある御旅所まで渡御し、その後、さらに伊庭内湖にまで運ばれる。神輿は、現在は道路上を運ばれるが、かつては水路を経て運ばれており、伊庭山の麓から湧き出た水が伊庭川・集落内水路を巡って伊庭内湖へと流れ込む水の道をなぞるように神輿が運ばれる。まさに、伊庭を形作る世界を具現化した祭りである。
集落内の伊庭川と水路は、伊庭山で産出する湖東流紋岩を用いた石垣で築かれている。この水路には各家々から川に下りるカワトが設けられ、さらにカワトにはイケスが設けられ、内湖や川で捕らえた魚を食卓にあがるまでの間蓄養していた。家々は水路で囲まれた区画内で幅の狭い路地を介して敷地が接し、その敷地を最大限に利用するため、水路の石垣から直接家が建ち上がる「岸建ち」が見られる。敷地内は、母屋とその裏手に柿・サンショウ・シュロ等の有用樹が植えられた屋敷畑・作業小屋があり、路地との間には前栽が設けられている。これらの景観は、集落内の水路を中心とした生活や生業を示す重要な要素として欠かすことができない。
伊庭集落には、地縁組織、年齢組織、宗教組織など、多くの社会組織が存在している。地縁組織としては8つの「町」があり、近世にはそれぞれが独立した行政組織であった。年齢組織としては、伊庭祭りなどさまざまな行事に関わる年長や同年といった組織がある。宗教組織には、神社の氏子のほか、門徒・檀家があり、数件から数十件で小祠や堂に奉仕する「在地」という集団がある。それぞれの家は「町」といった地縁組織と宗教組織に所属、個人は年齢組織に所属することになる。このような重層的なネットワークによって相互に関連づけられた社会構造は、地域の紐帯として重要な要素である。そして、その社会組織の中核となる施設と共に、行事の中で作り出す勧進吊りや注連縄などの景観は、伊庭の歴史と社会を映し出す重要な文化的景観である。
大濱神社の前には集落の入り口となる勧請吊りがあります。
伊庭の坂下し祭りは春の郷祭りとして大変有名です。
【伊庭内湖の農村景観】範囲図