郷土芸能 江州音頭
[2024年10月24日]
ID:11442
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江戸時代末期の文政12年頃、八日市市場に出入りしていた芸人の桜川雛山が歌祭文を広めました。雛山の教えを受けた板前の寅吉(西澤寅吉)は、歌が好きで歌寅と呼ばれていたほどでしたが、雛山から習った歌祭文に、その当時はやっていた念仏踊り・歌念仏などを取り入れ、『江州八日市祭文音頭』を作り上げます。これが現在の江州音頭の始まりです。
西澤寅吉の記録はほとんどありませんが、雛山に習い始め、その道に入ったのは19歳頃と言われています。それから40年ほど後の明治初年、八日市祭文音頭の完成をもって芸名を師匠の桜川をもらい、初代桜川大龍と名乗るようになります。
この八日市祭文音頭の完成には、奥村九左ヱ門の協力があったことが見過ごせません。奥村九左ヱ門は、天保10(1843)年生まれで、大龍とは33歳も年が離れていますが、この二人の協力によって、八日市祭文音頭が出来上がりました。奥村九左ヱ門は、稼業が真鍮鋳物細工家であったため、稼業の屋号を芸名に初代真鍮家好文と名乗るようになりました。真鍮家三代目にあたる好延と後の初代文好からの聞き取り記録が以下のように残ります。
『江州音頭の元祖は歌寅で、それを助けて今のものにしたのは真鍮家初代の好文である。言い伝えによると歌寅が大名の料理番をしていて、その歌の上手なのが認められ、無礼講の時、その大名のお気に入りになって、歌寅という名を与えられた。その大名は誰かと聞いたが、それは分かりませんとの事であった。その後、郷里の八日市に帰って盆踊りにその歌が合わぬものかと工夫していた。』
『盆踊りに合うか合わぬか工夫していたが、真鍮家の初代好文さんに語らせて、盆踊りに合う音曲を大成した。それで一時、江州八日市祭文音頭といった。次に八日市音頭、そして今では江州音頭で通用するようになった。』(この聞き取りは、昭和27年発行の滋賀県八日市町史の研究の編纂過程で行われました。)
・歌祭文とは
祭文とは本来は神前でのべる言葉ですが、おもしろい節づけで読み上げられ、それが修験道と結びついて山伏の祭文として行われるようになり、恋慕や傷心などを表現する「くどき」と呼ばれる曲節が加わり、かけおちや心中など世俗の事件を多くとりあげ、民間にもてはやされ完成した芸能が歌祭文です。錫杖やほら貝が伴奏の楽器として使われました。
・念仏踊りとは
仏教儀礼として念仏・和讃をうたいながら霊の鎮魂や鎮送のために踊るものを踊り念仏、これを芸能または娯楽のためにすると念仏踊りとなります。宗教的な文句の代わりに、恋歌や情景歌や替え歌などになり、祖霊供養や農耕儀礼ともつながって広まりました。
・歌念仏とは
念仏が音楽的な合唱となりさらに芸能化したものです。
江州音頭顕彰碑(延命公園)
桜川小龍墓(川合寺町西蓮寺)
桜川雛山、桜川好文碑(八日市金屋町金念寺)
「出し」 音頭のかかりだしで、『アー サテハ此の場の皆様よ』というところ。
「平節」 5、7調の普通の節。
「祭文」 特殊な歌い方で祭文語り直伝の部分と考えられる。「これじゃからとて皆様へ」などというあたり。
「半祭文」祭文の下半分の節まわしを落し、踊子の掛け声をとる『尻取り』のうたい方。
「おくり」『そもそもえー』と歌いだすまわし。(貝とおくりは、一段に一回と限られている)
「せめ」 座敷音頭の終曲に近いところで、調子を速める歌い方。
「なげき」「しぼり」悲観の場所を、表わす時の歌い方。
「クリ」 力の入る歌い方。
「千秋楽」伊勢音頭で結ぶ。法螺貝で悪魔を吹き出し、後を清める。結びは『アーこの金杖御当所は、益々御繁盛、目出度かりける、次第なりける』(節は伊勢音頭)
このような構成は、江州音頭が口説きや祭文の影響を受けてできたことに由来します。
また、合いの手も、『 ヨイト ヨイヤマカ ドッコイサノセ』のほか、音頭の途中に錫杖を鳴らしながら『 デロレン、デロレン』(レレレンと表記する場合もある)と入れます。これは法螺貝の名残りで、江州音頭が祭文の系譜にあることを伝えています。
江州音頭の形態には棚(櫓)音頭と座敷音頭の2態あります。
棚(櫓)音頭は、盆踊りでよく知られるように櫓の上で音頭をとるもので、三味線・太鼓が入ります。
一方、座敷音頭は、その名のように座敷(屋内)で演じられ、踊りや楽器はつきません。正面に見台を置き、演者の後方に「掛け声」が控えます。音頭は、物語の展開を主としたもので、本題に入るまでの「枕」の部分はともあれ、本題部分に入ってからの節使いも、平節は殆ど使われず、大部分が節の付かない啖呵(会話やナレーション等の科白)と、リズムの無い言葉(半分言葉で半分が節、の意)とで進行し、時々半祭文(祭文も有り)の節で落とす(一区切りを着ける)という芸態です。
江州音頭が全国的によく知られた音頭となったのは、寄席で演じられるようになったことがきっかけです。明治30年代に入ると、江州音頭は京都・大阪・神戸の寄席で5月から9月にかけて、毎年のように演じられていました。上方演芸辞典によると、大阪千日前の一席亭にかけられた江州音頭が人気を呼び、これが契機となったと書かれています。5月から9月というのは、音頭取りはプロの芸人ではなく、江州音頭愛好家が、作事の合間をみて、各地を興行して回っていたことによります。初代大龍、好文からその系譜をひく家元はいずれもプロではないところも、江州音頭の特徴となっています。
地元で江州音頭が親しまれ、愛されていたことがわかる記述として、昭和18年、東近江市下一色町で神ノ池とよぶ井戸の掘削が行われたとき、その工事の様子を記した日誌があります。そこに竣工の祝いとして江州音頭を招いたことが書かれます。夕方から櫓を組んで村人総踊りの予定でしたが、あいにくの雨で座敷音頭に変更になりました。しかし翌朝も朝から人が集まり、座敷音頭で楽しんだと記されます。
昭和40年頃までは、音頭取りが親方とともに一門で各地の盆踊り会場をめぐる興行が盛んでした。通常、7月頃から1ヶ月くらい興行しますが、興行先の村々で泊るのが恒例であったため、盆踊りの翌朝は、座敷音頭で楽しむということになっていました。
滋賀県出身の音頭取りによる興行から演芸場で爆発的に流行した江州音頭ですが、その後、寄席で演じられていく過程で浪曲や漫才へと発展をとげます。このことから江州音頭は漫才のルーツといわれ、大衆芸能の歴史において注目されています。
保持者 三代目真鍮家文好(小椋祥行) 昭和17年生まれ
三代目真鍮家文好さんは、昭和45(1970)年に初代真鍮家文好に入門。師匠の真鍮家文好は、桜川大龍とともに江州音頭を作り上げた真鍮家好文の直弟子二代目好文の娘で、初代文好です。二代目文好より教えをうけ、平成11(1999)年、三代目文好を襲名しました。
地元で受け継がれてきた江州音頭の継承に努めるほか、新作にも意欲的に取り組み「近江八景」「東近江八景」などの創作を行っています。
また、後継者育成にも積極的であり、県内に3ヵ所教室を主宰し、子どもから幅広い年齢層に対して普及事業に努めています。日本各地の盆踊をはじめ、平成23(2011)年には台湾で行われた日本の祭りに出演。同年、真鍮家文好一門踊りの部を発足し、江州音頭の保存と継承に力を入れています。
保持者の略歴
昭和45(1970)年 初代真鍮家文好に入門
平成11(1999)年 三代目文好を襲名
真鍮屋文好さん
江州音頭保存会は、昭和50年に滋賀県を代表する民俗芸能である江州音頭の保存と踊りの普及などを目的に設立されました。以来、県内外の芸能大会などへの出演や、音頭の講習会や踊りの指導に努めています。江州音頭は昭和46年5月20日、市無形民俗文化財に指定されています。
毎年7月下旬に、八日市駅周辺の中心市街地で行われる聖徳祭りの市民総踊り(主催 東近江市商工会議所)は、江州音頭発祥の地にふさわしく盛大に行われています。
平成19年度文化庁ふるさと文化再興事業地域伝統文化伝承事業補助金を得て、「江州音頭の踊り方」伝承用映像記録作成事業を実施し、江州音頭保存会と江州音頭連合会の協力により、映像記録を作製しました。
平成24年度文化庁文化遺産を生かした観光振興・地域活性化事業国庫補助金を受けて「江州音頭歴史的音源保存事業」を実施し、CDを作成しました。
音頭研究の第一人者である故村井市郎さんが収集されたレコードをご家族の許可を得てデジタル音源とし、「村井市郎音頭資料コレクション(江州音頭編)」CD25枚にまとめたものです。さらに、保持者指定を記念して開催した、「歌い継ぐ・語り継ぐ郷土芸能「江州音頭」共演会」のCD1枚のCD全26枚からなります。
このCDは、東近江市立図書館(八日市・永源寺・湖東・能登川)および東近江江州音頭会館(東近江江州音頭普及愛好会が運営)で貸出しています。
東近江江州音頭会館
運営者 東近江江州音頭普及愛好会
場所 〒527-0028滋賀県東近江市八日市金屋2丁目6-25
(東近江市文化交流センター内)
電話050-5801-1169
メール aikokai0209 @ e-omi.ne.jp
開館記念口演(別ウインドウで開く)がYouTubeで公開されています。
フェイスブック(別ウインドウで開く)が開設されています。
江州音頭歴史的音源保存事業CD目録